あとぴナビ/スペシャルインタビュー |
取材・文/柿原恒介 、撮影/橋詰芳房 |
PROFILE 1964年生まれ。熊本県出身。小学校4年生からバドミントンを始め、中学時代は全国大会2回優勝。高校でインターハイ3冠(シングルス・ダブルス・団体)を達成。史上最年少の16歳でナショナルチーム入りを果たし、12年間、世界を舞台に活躍。1992年バルセロナ五輪代表。引退後は、スポーツキャスターとしてテレビ・雑誌・新聞ほか幅広く活躍しながら、全国でバドミントンの講習会や講演会を行い、その魅力を広く伝えている。ヨネックス所属。 |
- 1992年のバルセロナオリンピックで活躍した元バドミントン選手、陣内貴美子さん。 そんな陣内さんにも、現役の頃、1年間競技できなくなった期間がありました。 現在のバドミントン選手活躍の礎となった陣内さんのバドミントン人生に迫ります。
- 二ュース報道番組の生放送の出番前。張り詰めた空気漂う中、控え室にお邪魔すると、スタッフの緊張とは裏腹に、リラックスした笑顔で陣内さんが現れました。
キラキラと輝く大きな瞳、スラリとした長い手足。まるで女優さんのように美しく、テレビで見るよりも華奢な印象です。「今でこそ168cmもありますが、小学生の頃は他の子よりも背が小さくて、コンプレックスだったんですよ。とにかく負けず嫌いでした」。べて人の倍こなし、皆の練習が終わった後も、一人で居残り練習をしました。努力が実を結び、その後は一度も負けることはありませんでした。小学生時代から目立って強かった陣内さんは、中学生になると強化クラブに所属します。
「練習はとても厳しかったですね。平日は毎日14km、土日は30kmの走りこみがあり、一番強い選手は、一番最後に出発するんです。それでも、一番に戻ってこなければいけない。先生は厳しかったですが、仲間同士がとても仲良くて楽しかったので頑張れたんですよ。夢中でバドミントンをしていましたね」。
中学生で全国チャンピオンとなり、卒業後は、バドミントンで県内でもトップクラスの熊本中央女子高校にバドミントン入学し、親元を離れて寮生活を始めました。自炊や上下関係の厳しさなども味わいながら、下半身を鍛えるために休日なしの自主トレを続けました。高校でもシングルス・ダブルス・団体で全国優勝。2年生のとき史上最年少でナショナルチームに所属する ことになりました。
「私が入ったときのナショナルチームは、ことも何度もあります。ナショナルチームに入ってからは、バドミントンが楽しいと思ったことは一度もありませんでした」。
バドミントンのシャトルは、最高初速で時速350kmにも達します。スタミナ、瞬発力、集中力、読みが求められ、対戦相手とは駆け引きの頭脳戦になることも。プレッシャーの中、数多くの試合をこなしながらも、19歳のとき、バドミントンができなくなるという危機に陥ります。
「毎朝起きると、貧血で倒れてしまって一歩も動けないんです。62kgあった体重が半年で48kgまで落ちました。食べても栄養にならないんです。病院でいくら検査しても異常はなくて、精神的なものだと言われました。それで、一時休養したんです。これでバドミントンをやめられる……正直ホッとしました。でも、目標をなくしてしまうと、食欲ってなくなるんですよ。何を食べても全然おいしくないんです。それでも母が、何も言わず、毎日毎日、一生懸命貧血に効くレバーとかほうれん草のおかずを工夫して作ってくれました。母に救われましたね」。
- ■ 回り道も必要なときがある 休むことでプラス思考に
- そんな出口の見えない日々が1年以上続きました。「早く元気になって、戻っておいでよ!」仲間や先輩の励ましに支えられながらも、悩んだ末、監督にバドミントンをやめる決意を告げました。「やめてもいいが、最後にみんなに挨拶しに来るように」と監督。陣内さんは挨拶のため、その年の全日本総合の大会に出かけます。
「観客席から仲間の試合を見たのは初めてでした。そうしたら、”私、一体ここで何してるんだろう?”って。 ”私もこの試合に出たい!来年は絶対に実力でこの試合に出るぞ!”って思えたんです。そうしたら、とたんに、ご飯がおいしい!と思うようになって。当たり前のことできないしんどさを経験したら、できることの幸せの方が断然大きく感じられるようになっていたんですね。それからは一度もやめたいとは思わなくなりました」。
プレッシャーに押しつぶされそうになっていた陣内さん。この期間に期待されることのありがたさも知ったといいます。一年は、必要な休養期間だったんですね。「回り道も必要なときがあるんですよね。一年休んだら、現役が一年延びると思えばいい。プラス思考になりましたね。あとは、”絶対元気になって試合に出るぞ!”という思いの力も大切だと思いました。食べ物もトレーニングも目標があってこそ、身になるんだと思います」。
その後、立ち直った陣内さんは、ナショナルチームのキャプテンに。「自分の代で弱くしてはいけない」というプレッシャーと闘 いながら、オリンピックを目指しました。
出たくても出れない人、影で泣いている沢山の人たちの分も、頑張る責任がある、そんな思いでバルセロナへ!
初めての夢の舞台オリンピックは、異様な空気に包まれていました。オリンピックとはいっても、すでに国際試合で何度も闘っていて知り尽くしている面々のはずなのに、雰囲気は全く違っていたそうです。
「世界チャンピオンでさえ、緊張してサービスの手が震えていたり、ダブルスのペア同士がラケットでぶつかって鼻を切ったり、普通じゃありえないことが起こったんですよ。ダブルスで出場した私もものすごく緊張しました。結局入賞すらできませんでしたが、これが私の実力なんだと思えて、納得のいく9位でした」。
オリンピックで燃焼し尽し、引退に悔いはありませんでした。その後の活躍はみなさんもご存知のとおり。
「北京五輪では、私たちができなかった世界チャンピオンの中国に勝ち抜くという夢を、後輩たちが実現してくれて、本当にうれしかったですね。これからは、バドミントンやスポーツの楽しさを、子どもたちに伝えていく仕事がしたいです。スポーツはあらゆることが学べる教科書。負ける悔しさ、勝つ喜び、努力すること、友達を大切にすること、挨拶すること、親に感謝すること、…スポーツが教えてくれるものは計り知れないんです」。
その目の輝く先には、きっと新しい目標があるに違いありません。いつも精一杯の努力をして、結果に悔いを残さない。挫折を乗り越えてきた自信から溢れる、爽やかな笑顔には、誰もが元気付けられます。これからも、オリンピックを目指す若者の希 望となることでしょう。