あとぴナビ/スペシャルインタビュー |
取材・文/大石久恵 、撮影/橋詰芳房 |
PROFILE 沖縄県石垣市出身。 82年、地元テレビ局「ちびっこのど自慢大会」優勝を皮切りに、素人のど自慢大会で数々の賞を獲得。86年のデビュー後一旦活動停止し、98年に再デビュー。2001年に『涙そうそう』が大ヒット。2002年には紅白歌合戦に初出場し、日本レコード大賞で金賞受賞。05年10月には、オーロラ基金主催のベネフィットコンサートで、初の海外公演を実現。05年、4年連続紅白歌合戦出場・4年連続レコード大賞金賞受賞。 |
- 多くの人に愛され続ける名曲「涙そうそう」を歌い、澄んだ歌声でファンを魅了し続けている夏川りみさん。 一度は夢をあきらめかけたこともありましたが「歌手になって多くの人に歌を届けたい!」という願いを実現させたピュアな素顔をクローズアップします。
- 幼いころから「将来は歌手になりたい」という夢を持ち続け、「どんなときも歌っていた」という夏川さん。彼女の名前が広く知られるようになったのは、大ヒットした「涙そうそう」がきっかけです。ひと言ひと言、ていねいに語りかけるような歌声の温かさに、胸を熱くした人もきっと多いことでしょう。
「今年でデビュー10周年ですが、あっという間の10年でしたね。今の私があるのは、『涙そうそう』のおかげ。もしもこの曲と出会わなければ今の私はなかったと思うぐらい、私にとっては特別な曲です」。
夏川さんと「涙そうそう」の運命的な出会いは、デビューの翌年、2ndシングルをリリースした2000年の夏でした。いつもなら外出する時間帯でしたが、その日はたまたま自宅にいて、テレビから流れる同郷の先輩、ビギンの歌にすっかり心を奪われてしまったのです。そして後日、「この曲を私に歌わせてください」と、ビギンのメンバーに伝えに行きます。
「ビギンは姉の元同級生。以前から交流があり、かわいがっていただいていたので、『いいよー。歌うといいさぁ』と、お許しをもらうことができました。今では多くの人に歌を聴いてもらえて感謝しています」。
- ■ 歌いたいのに歌えない、そんな時期も乗り越えて
「涙そうそう」の大ヒットとともに知名度を上げ、現在では全国各地で精力的にコンサート活動を行う夏川さんですが、実は1度、「歌手を辞めようか」と悩んだ時期もありました。
故郷の石垣島で過ごした子ども時代、八重山民謡と演歌が大好きだったお父さんに鍛えられ、当時は「のど自慢あらし」として名をはせていました。そして、長崎音楽祭でのグランプリ受賞を機にスカウトされ、10代半ばで東京へ。でも、なかなか仕事がもらえず、歌いたいのに歌えない日々。2年ほど芸能活動を中断し、一時期、沖縄でスナックを経営するお姉さんを手伝っている時期もありました。 「『悲しいなあ、なんでかなあ』と思いながらも、やっぱり歌いたい!と思う自分がいて。姉の店でも歌い続ける毎日でした。そして、コンサート会場が広かろうが狭かろうが、聴いてくれる人たちの前で歌えること、それ自体がすごく幸せなことだと気づき、『私はまだまだ頑張れる!』と元気がわいてきたんですよね」。
そんなとき、もう1度東京で再デビューしないか?と、音楽関係者から声がかかります。今になって思い返すたび、あの頃の時間はムダではなかった、自分自身を取り戻すために必要だったと実感しています。
「あきらめないで歌い続けていれば、いつかはたくさんの人たちに私の歌を届けることができる日が来る!と信じていましたから。やっぱり神様は見守っていてくれるんだなあ、願い続けていれば夢は叶うんだ!と思いました。それに、『涙そうそう』と出会ってから、故郷への思いがいっそう強くなりました」。
- ■ 自分の原点を再発見。私を育んだ沖縄の歌
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夏川さんが生まれ育った石垣島では、音楽が生活の一部として根づき、それはごく当たり前の光景でした。少女時代は「歌手になるためにも早く東京へ!」と切望していましたが、東京の生活が長くなるにつれ、「やっぱり三線の音色はいいなあ。沖縄の歌って素晴らしい。沖縄の方言があるのもすごいことなんだ」と気づかされます。
いったん沖縄を離れたことで、空の青さや海の美しさなど、これまで当たり前でしかなかった故郷の原風景が、実はかけがえのないものだったと知り、「私の原点は沖縄にある!」と思うようになりました。 自分のなかに、無意識のうちに沖縄の歌が根づいていたのを知る不思議な体験もありました。数年前のレコーディングで、沖縄に古くから伝わる子守唄を初めて歌ったとき、レコーディング本番でいきなり歌に合わせて自然に手が動き出したのです! 「自分でもとっても不思議な体験だったので、母に電話したら、『えーっ、それはりみが赤ちゃんのとき、ばぁばぁがよく振りをつけて歌ってくれた子守唄だよ!』って。私が生まれた翌年に母が妹を出産したので、私は祖母に面倒をみてもらっていたんですね。自分では無意識なのに、祖母が教えてくれた振りを体が覚えていたのかなあ、と。きっと、身振り手振りで子守唄を歌いながら、幼い私をなだめたり、あやしたりしてくれていたのでしょうね」。
10代で上京し、最初にデビューしたときは、東京の暮らしに早く馴染んで、標準語に慣れなくては!と無我夢中でした。 「でも、今では『沖縄方言でさぁさぁ言ってても、別にいいさぁ』なんて、ようやく肩の力が抜けた感じですね。やはり自分らしく自然体でいるのがいちばんです。そして、これからは沖縄の歌も大切に歌っていこうと思うようになりました。音楽を通じて『沖縄はこんなにいいところだよ』って、多くの人たちに伝えていきたいです」。
今や多忙な毎日ですが、スケジュールの合い間をぬっては沖縄に帰り、充電するひとときをとても大切にしています。 「あるとき、頭痛を抱えて飛行機に乗ったんですが、シマが見えてきた瞬間、頭が痛いのがどこかにいっていました(笑)」。 沖縄に帰るたびに、必ず出かけるのは海。どこまでも広がる母なる海を見ていると、それだけで元気がわいてきて、波の音を聴いているだけでホッとするのです。
- ■ やさしい歌をうたうと自分の気持ちもやさしくなれる
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子どものころからの「歌手になりたい」という夢を実現させた夏川さんのもうひとつの目標は「親子で聴いてもらえる歌をこれからも歌い続けていく」ということ。
「コンサートでも親子の愛をテーマにした歌を歌っています。やさしい歌を歌うと、自分の気持ちもやさしくなれるんですよ」。 数年前、夏川さんが歌った沖縄の子守唄「童神」という歌では、赤ちゃんをあやすような振りがあり、妊婦さんを対象にしたコンサートなどで好評でした。
「産後、赤ちゃん連れで再び聴きに来てくれた人もいました。トークタイムにぐずっていた赤ちゃんが、私が歌うとすやすやと眠ったことがあり、お母さんのおなかの中にいるときから私の歌を聴いていてくれたのかなと、うれしくなりました」。
3月18日にリリースしたばかりのアルバム『ココロノウタ』では、聴いてくれる人の心が安らぎ、元気になれる歌をセレクト。「私も頑張っているよ。みんなも一緒に頑張ろうよ!」というメッセージをこめました。
「最近は悲しい事件が増えているので、聴いてくれる人が幸せな気持ちになれる歌をたくさん届けたいなと、と思っています。いろんな人たちに支えてもらって今の私があります。感謝の気持ちを忘れずに、これからも歌い続けていきたいですね」。