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あとぴナビ/スペシャルインタビュー

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取材・文/平川友紀 、撮影/橋詰芳房
上田正樹 上田正樹



PROFILE
京都府出身 1974年、”上田正樹とサウストウサウス”を結成。伝説の スーパーバンドと高く評価され、当時のバンドブームの 頂点に立つ。バンド解散後はソロ活動を続け、1983年 「悲しい色やね」がシングルチャート1位となり大ヒット。そ の後ヒット曲に甘んじることなく、自身の追求する音楽活 動を続ける。近年ではインドネシア、マレーシアで、ヒット チャート1位を獲得するなど、インターナショナルな音楽 活動を展開している。
  • リズムアンドブルースと出会ってから、40年以上が経ったという上田正樹さん。 うたうことの情熱と音楽への愛情は、その間、途切れることなく続きました。そのパワーの源はいったいどこにあるのでしょうか。 2009年7月に発表したニューアルバムで新たなスタートラインに立ったという上田さんに、 これまでの転機と、今思う音楽と人生の関わりについて、お聞きしました。

  • 「2001年、インドネシアのヒットチャートで17週連続1位を記録 した大ヒット曲「ビアール・ムン ジャディ・クンナンガン」。この曲は、インド ネシアの歌姫レザと日本のR&B(リズムア ンドブルース)シンガー上田正樹のデュエッ トソング。日本では「悲しい色やね」などの ヒット曲で知られる上田正樹さんですが、 その音楽活動は日本国内にとどまりませ ん。インドネシア、マレーシア、韓国などア ジアでの人気を確固たるものとし、世界に 通用するシンガーとしての歩みは、今なお 加速され続けています。
    R&Bという異国で生まれた音楽に魅了 され、人生の大半を捧げてきたという上田 さんは、音楽を通して国や人種の違いを 常に意識してきました。それは強いコンプレックスであると同時に、乗り越えるべ き大きな目標でもあると言います。そんな 上田さんの音楽が国境を越えて認められ るようになったこれまでを、じっくり語っ てもらいました。
  • ● たったひと晩で人生が変わった
  • 上田さんとR&Bとの運命的な出会い は、高校2年生のときに見たアニマルズ (1960年代、ビートルズらとともに世 界的に人気のあったイギリスのロックバン ド)のライブ。
    「ひと晩で人生が変わりまし た」というほど、アニマルズの音楽は上田少 年にとって衝撃的なものでした。 「3階のいちばん奥の席から1階のステー ジ前まで、どうやって行ったのかも覚えて ないんです(笑)。ステージ上からエリック・ バードンに握手してもらいました。その瞬 間、本当に手のひらに、ビリビリと電流が 走りました」。
    その日を境に、1日中ギターを片手に歌 をうたう日々を過ごすようになります。 「ブルースやR&Bの名曲を片っ端からコ ピーしました。でもやればやるほど、ブ ルースやR&Bには、絶対に越えられない 「壁」があるのがわかる。最初はそれが英語 なんだろうと思って、英語をすごく勉強し ました。でも、英語じゃありませんでした。 それは「血」なんですね。レイ・チャール ズと対談したときに『ソウルミュージックっ て何ですか?』と質問しました。彼は『音楽 はオレの「血」だ』と言いました。やっぱり血 の成せる技…DNAの違いじゃどうしよう もない。できるわけがないと思いました。 でも、しがみついてたんです。だってほか にすることがないし、興味のあることがなかったから。そこで絶望してやめるか、 『よし、やってやる』と思うかどうかなんだ けど。僕は『よぅし!』と思いました」
  • ● 「血」の壁を乗り越えて
  • 上田正樹 そもそもブルースとは、奴隷としてアメ リカやヨーロッパに強制連行された何千万 人というアフリカの人たちの、怒りや絶望、 悲しみから生まれた音楽。無理やり拉致さ れ過酷な体験をした人々は、すべての怒り や憎しみや絶望を、妬みや復讐ではなく、 音楽というポジティブな力に変えたのです。 「逆境に立たされても豊かなブルースとい う音楽を作った方々は、人類でいちばん崇 高だと思います。だから、音楽をやる側が アフリカに対して敬意を表することはすご く大事なことだと思います」。
    アニマルズに出会った瞬間、上田さんは、 その崇高さを無意識に感じ取っていたのかもしれません。 「ブルースは、悲しみに酔い しれるのではなく、その向こう側へ行こう とする音楽なんですね」。
    ブルースやR&Bの起源を考えれば、血 というのは、もはやどうにもならない壁。 上田さんも相当悩み続けました。その壁を 崩すきっかけとなったのは、音楽を始めて 何十年もあとのことです。それは、ブルー ス界の巨人B・B・キングの一言でした。
    「B・B・キングと一緒にライブをやる機会が あって、そのときに『お前はすごくオリエン タルでアーバンなブルースシンガーだ』っ て言われてね。何十年間も出口がなかった 暗いトンネルの向こうに、ちょっとだけ光 が射した。そこからまた頑張れましたね」。
  • ● アジアのポップミュージックのルーツになる
  • 「ゴスペル、ブルース、R&Bあたりがポッ プミュージックのルーツ。音楽って目に見 えない分だけすごく感覚的で、だからこそ、 バックグラウンドをしっかり学んで『土台』 を身につけることが大事。ところが、ポッ プミュージックにはそういうものがないと みんなが思っている。それはとんでもない 話でね。ポップミュージックも、基礎はも のすごく重要です」。
    音楽の源にあるもの。それは偉大な先人 たちが作り上げてきた、音楽の足あとでも あります。
    「だからシンガーはまず、模倣すべき。その 時期が終わると次に『自分っていうのは 何?』という試行錯誤が始まる。これはと てもきつい作業だけど、なんとか自分とい うものができてくるわけ。僕も『できないで きない』と言ってるうちに、そういう土台を 何十年もかけて築くことができたのかな。 日本はまだまだポップミュージックの歴 史が浅い国。それでも「土台」だけはできて きて、本気で日本やアジアのルーツミュー ジックになるものを作りたいと思っていま す。インドネシアでも日本でも韓国でも、土 壌が違うことで、独特の土壌から生まれる R&Bができるはず。アフリカそのものの 「血」はないかもしれないけれど、違う形の R&Bを作ることはできる。 アジアはこの先、間違いなく音楽シーン のマジョリティになると思っています。まだ 時間はかかるかもしれないけど、アジアか らまずひとり、そうやってルーツになる人 が出れば、世界の目が一気にアジアに向く と思う。そのためなら、僕は喜んで布石に なりたいという気持ちでいる」。
    こんな上田さんの思いは強く、インドネ シアや韓国での成功をきっかけに、最近で はアジアの数多くの一流シンガーたちと手 を結んで、精力的に活動しています。 「国や宗教を越えてみんなが『いいね』って思 える根っこの音楽を作りたい。これからが 勝負だと思っています」。
    昨年60歳になった上田さん。音楽に対する ひたむきな思いと情熱は、衰えるどころか、 ますます強くなっています。何がここまで上 田さんを音楽に向かわせたのでしょうか。「途中でどんな環境にいても、どんなにつら いことがあっても投げ出さなかった。諦めな かったことがいちばん大きい。やっぱりす ごいR&Bが好き。もうほんっとうに好き で、好きだから、お金がなくてもおなかが 空いてもずっと歌をうたっていられた。 どんなことにも共通するけど、大事なの は、自分の気持ちをポジティブに持ち続け ること。そうすれば自分で『よぅし!』と思 えるものが見つけられるし、失敗してもい くらでもやり直せるんだよ」。
    「R&Bが好き」。それしかないと上田さん は力強く言いました。「好き」という気もち は、人生を変えるほどの大きなパワー。 「今からが最高に面白いとき」と宣言してはば からないその表情は、アニマルズに出会っ たあの日と、同じ表情に違いありません。
プレゼント



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