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あとぴナビ/スペシャルインタビュー

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取材・文/大石久恵、撮影/橋詰芳房




PROFILE
1954年、東京都西日暮里生まれ。幼少の頃から芸人の道を志す。高校卒業後、 片岡鶴八に弟子入り。1980年代はバラエティ番組を足がかりに、全国区の人気 を得る。以降、芸人、役者として映画、ドラマ、バラエティなど幅広く活躍。1988 年、プロボクサーのライセンスを取得。1990年代は画家としての道も切り開き、 様々なジャンルを横断して活躍中。
  • 20代 か ら 3 0代前半にかけて、お笑い芸人としてお茶の間の人気者だった片岡さん。 32歳でプロボクサーライセンス取得を機として新境地を開き、 映画やドラマで存在感のある役者さんとして活躍しています。 現在は画家としての創作活動も続けている片岡さんに、 人生の節目の決断、自分で決めた〈夢の到達点〉に一心不乱で向かっていく原動力についてお聞きしました。

  • 1980年代にバラエティ番組で ブレイクした片岡鶴太郎さんが 芸人を目指したのは、小学生の 頃でした。
    「当時は東京の下町に住んでいて、親父に 連れられて毎週のように落語を聴きに行 きましたね。寄席で覚えた落語を家でや ると親父が喜んでくれてね。『将来は芸人 に!』と思うようになりました」。
    10歳で「しろうと寄席」(フジテレビ)に 出演するなど、早くも芸人としての頭角 を現していた片岡少年。でも勉強は大の 苦手でした。「当時の成績はいつもぺケか ら1番目か2番目。両親も『勉強をやれ』 とは言わないし、勉強のやり方自体を知 らなかったんですよ」。
  • ● ドリルを解く快感がその後の人生の核になった

  • 将来芸人になるにしろ、高校までは出 ておきたいと思っていた片岡さん。でも 中3の夏に「お前、都立高校に行くつも りなの? この成績じゃ、どこの高校も 無理」と担任の先生に言われて愕然とし ます。
    「親からは『お金がないから私立はダメ』と 言われ、『都立に入れなかったら高校に行 けない』とあせりました。不合格なら死ぬ しかないとまで思い詰めていましたね」。  勉強をしたことがないという片岡さん が、何とかしなくてはと取り組んだのが、 問題集のドリル。本屋にドリルを自分で買いに行き、がむしゃらに取り組みました。 「中3どころか、中2、中1の勉強さえも わからない。だから小6のドリルから始 めました」。小学6年のドリルを終え、中1、中2 の問題が解けるようになると、いつの間 にか中3の問題も解けるようになってい ました。
    「『解ける!』というのが快感でね。ドリ ルに熱中していました」。
     問題を解くのが面白くて、徹夜で机に 向かったことも。驚くべき集中力で受験 勉強に取り組み、希望校に合格したのです。 「受験校は都立1本。落ちたら行き先がな いのでもう必死。それで、合格したとき に『俺ってやればできるんだ』と気づいた んですね。ドリルの経験は、ぼくの人生 の核になっています」。
  • ● 次に進むためにプロボクサーを目指す
  • 片岡さん32歳。芸人として多忙を極め た頃に、プロボクサーのライセンスを取 る決心をします。売れっ子になっても充 実感を得られず、番組収録後は飲んで食 べて遊ぶという刹那的な日々を繰り返し ていました。
    「そんな自分がイヤで、トレーニングを始 めました。子どもの頃からボクシングが 好きで、今のままで終わりたくない、次 のステップを探したいという気持ちが強 かった。自分を立て直すためにも、ライ センスを絶対に取ろうと決めました」。
    プロボクサーのライセンスは33歳までの年齢制限があり、タイムリミットまで 1年。「落ちたら次はない。ワンチャンスをモノにしようと必死でした」。
    体作りのために1日2食の食事管理な ど、規則正しい生活をスタート。片岡さ んは、ぽっちゃり体型から精悍な風貌へ と変身し始め、この頃から俳優の仕事が 増えていきます。
  • ● 自分にとって一番大切なものは何か

  • 片岡さんが日本アカデミー賞最優秀助 演男優賞を受賞した、1988年の映画 『異人たちとの夏』の撮影は、ちょうどプ ロテストの直前でした。
    本番さながらのスパークリングで顔が 腫れることがあるかもしれないと、片岡 さんは役を降ろされるのを覚悟で、大林 宣彦監督に打ち明けます。
    「この映画は僕にとって非常に大事な作品 です。でも、今はもう1つ大切なものが ある。それはプロボクサーになることな んです」。
     そのとき監督は「役者は顔を撮るんじゃ ない。精神を撮るんだ。後ろからでも鶴 ちゃんの顔は撮れる。プロテストは応援 に行くよ」と言ってくれました。  大林監督の言葉には胸を打たれたとい う片岡さん。時には、「お笑いの世界では ポチャッとした鶴ちゃんがいいんだよ。 なぜそんなことするの?」と否定的な意 見もありました。
    「『ボクシングは今のぼくの人生で一番大切 なもの。たとえ仕事を失ったとしてもやり たい』そう答えました。誰になんと言われ ても、あきらめようとは思わなかった。 切実な思いで取り組んでいたんですよ」。
  • ● 椿の凛とした姿が絵の世界へ導いてくれた
  • 今は画家としても著明な片岡さん。絵 を描き始めたのは、40代目前の頃です。 「自分がマネージャーを務めた鬼塚勝也選 手が引退したり、連続ドラマが次々に終 了したりで、充実した30代が終わりに近 づくと、まるで引き潮がサーッと引いて いく感じがしました。
    夕暮れに一人でポツンといるような無 常感。『自分はこれからどうやって生きる べきか?』と、生き方の定まらない日々 が続いた時期がありました」。
    そんな頃のある寒い朝、ふと隣家の庭 に咲く赤い花に心を奪われたのです。
    「なんて可愛い花! 朝早く誰も見る人も いないのに、堂々と凛とした姿で咲いて いる。それに引き換え、僕はこの花のよ うに凛と生きることができない。そう思 うと、赤い花が胸に迫ってきました」。
    その晩、赤い花が椿だと知った片岡さ んの胸に「椿の姿をどうにかして表現し たい」という思いがわき起こります。
    「それまで花には無関心、絵を描いた経験 もなかった。純粋に『椿の花を表現でき たら、こんな素敵なことはない』と思っ ただけ。それがきっかけで絵を描き始め ました」。
  • ● 夢の到達点を決めて目前の今を楽しむ
  • もともとは、独学で絵を描き始めた片岡さん。
    「僕は専門教育を受けていませんが、10年 前にたまたま東京藝術大学の先生とめぐ り会ったご縁で、国宝の修復を行う専門 家から、日本画の技法や絵の具の扱い方 などを学ぶことができました」。
    めぐり会いがめぐり会いを生み、今日 へとつながっています。夢をあきらめな かったのは「自分の内なる声に動かされ たから」と片岡さんは言います。
    「誰にでも内なる声を聴く瞬間があるは ず。要はその声に耳を傾け、1歩を踏み 出せるかどうか。自分がやりたいこと、 大切に思うことに誠実であれば、魂が輝 き、納得し、生きる喜びを感じることが できるはず」。
    最近の新たなチャレンジはお菓子作り。 収録中のテレビ番組でパティシェ修行を 始めた片岡さん。
    「菓子作りは分量や配合が要。作り方に工 程があり、その辺が絵と一緒ですね。やっ てみると何でも楽しいんですよ。
     自分なりの〈夢の到達点〉を決めて、ま ず目の前にあることを楽しむ! という気 持ちを大切にしたいですね」。
プレゼント



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