あとぴナビ/スペシャルインタビュー |
取材・文/柿原恒介、撮影/橋詰芳房 |
PROFILE 中野 浩一(なかの こういち) 1955年生まれ。福岡県出身。 高校時代、陸上競技の高校総体で活躍後、日本競輪学校に入校。 75年、同校を卒業。第35期生としてデビューし、連勝を続けトップクラスに昇りつめる。 77年以降、世界自転車選手権で10年連続優勝を果たし、国内外で活躍。「ミスターケイリン」の愛称で親しまれ、競輪界のイメージアップに大きく貢献した。92年に現役を引退し、現在は競輪解説者、スポーツコメンテーター、タレントとして活躍中。 浅井企画公式プロフィール:http://www.asaikikaku.co.jp/profile/nakanokouichi/ |
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世界選手権の金メダル。10個持っているのは、世界に中野さんただ一人。
世界自転車選手権、前人未到の10連覇達成。
競輪生涯成績は、1236走中666回1着。中野浩一さんは、世界で活躍する日本人スポーツ選手の先駆け的存在と言えます。
何度も怪我をしながらも、過酷な競輪の世界で頂点を極めた中野さんは、どのように目の前の壁を乗り越えてきたのでしょうか。
- 元競輪選手:中野浩一さん
- ■ 千里の道も一歩から小さな目標達成を続けていけば遠い目標もいつの間にか近づきます
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初の開催が1893年、近代オリンピックよりも歴史のある世界自転車選手権。
中野さんは、当大会のスプリント種目で10連覇を達成。この大記録は、今も破られることのない金字塔です。
取材前、ご挨拶をして、真っ先に驚いたのは、『体の厚み』。現役引退後16年を経っても尚、その体は、筋肉の鎧をまとっているようです。
「そう?現役の頃と比べれば、筋肉は落ちていますよ。お腹なんか特に」。と屈託のない笑顔で返してくれる中野さん。
自転車競技を始めたきっかけは?「高校生までは陸上競技の短距離走に打ち込んでいたけれど、父を見ていたこともあり、卒業後は就職する感覚で日本競輪学校に入学したんですよ。
とりあえず自転車に乗ってみようと入学前に練習を始めました」。実はお父さまは競輪選手。その遺伝子を引き継いだのか、すでに入学前に、周囲が驚くようなタイムを出していました。「陸上競技で厳しい練習にも慣れていたから、トレーニングをしていけば自然と強くなるという自覚はありました。
1日寝ると、また強くなるという感覚でしたね」。卒業後、1975年に久留米競輪でデビュー。
いきなり18連勝を達成し、1976年第18回競輪祭では新人王を獲得。九州のハヤブサ・中野浩一の存在が世に知れ渡ります。
特に驚異的と言われたのが、トップスピードに乗せるための助走距離の短さ。タイミングを計り、「今だ!」という時に、急速にトップスピードに乗り、先行選手を追い抜く『捲り』の戦法を得意としたため、浩一ダッシュとも呼ばれました。
そのスピードはと呼ばれる中野選手を封じ込める勢力が誕生。複数の選手が連携して、中野選手の行く手を阻むレースが続きました。
「あの頃は面白かったですね。お客さんは、どちらか好きな方について応援する。
フラワーラインの選手たちと、僕や九州の選手たちとの闘いは、競輪界の盛り上がりにつながった面もあるんですよ」。
- ■ 自分の名誉のため、競輪の地位向上のため、世界に挑戦
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順調に日本競輪のレースに出続け、賞金を獲得すれば、それだけ収入もアップする世界。
しかし中野さんは「年に1回は環境を変えたい」と、あえて競輪を休み、世界選手権に出場しました。
「24歳のときに、目標でありライバルだった親父の実績を追い越してしまったんですよ。それから先は、競輪会の代表という意識があった。当時、知り合いだったプロ野球の山本浩二さんや、ゴルフの青木功さんと比較されると、どうしても競輪選手の地位はマイナーに扱われる。それなら、世界選手権で勝つのが一番と考えたんです」。
世界挑戦の2年目となる77年には、プロスプリント種目で初優勝。以降、世界選手権に出場し続け、優勝を重ねます。
80年にはプロ野球の王選手よりも早く、年間1億円の収入を突破。しかし、選手生活全てが順調とはいきませんでした。「骨折は2、3回はやったかなぁ。
肋骨の1本や2本折れても、競輪の世界では酷かったのは、世界選10連覇がかかっていた86年の6月。練習中に落車した選手とぶつかり、肋骨5本、計7か所の骨が折れた。1本は肺に刺さり、肺の空気を抜かないと死んでしまう怪我でしたね」。
普通の人なら骨が繋がるまで安静にしますが、筋肉が衰えないよう、リハビリをこなしながら、骨折の完治を待ちました。
「ドクターに可動の限界を聞きながら、慎重に体を動かしました。下半身は無事だったので、病室で足だけはトレーニングしましたよ。
いろいろ試行錯誤したけど、2週間経つと、いつの間にか痛みがなくなっていた。なんで治ったのか不思議だけど、要は治ればいいわけ(笑)」。
驚異の回復力で7月には練習を再開。しかし、またもや落車した選手とぶつかり、肋骨がバラバラになったのです。
「これで世界選手権の出場は無理だと思ったけど、10連覇にはこだわっていたんですよ。
以前、巨人軍のV9を達成した監督・川上哲治さんとゴルフをして負けたことがあって。ゴルフでは負けたけど、V9だけは破ってスプリントを引退すると宣言していたんです。10連覇という記録は、人びとの記憶にも残りますからね」。
中野さんは、痛みに耐えながら、開催国アメリカ・コロラド州に渡ります。体には骨を固定するバンドが巻かれていました。
「大会の3日くらい前、ようやく痛みを忘れました。やはり、病は気からですね」。
強行出場したレースは見事、優勝。現地のファンから喝采を浴び、帰国後は、内閣総理大臣顕彰も授与されます。
「世界選手権に限らず、欧米の観衆は人種に関係なくフェアに戦った選手には拍手を与えてくれました。僕もチャンピオンとして認められたのは嬉しかったですね」。
- ■ ハリがある毎日を送れば、気持ちも体も調子が良くなる!
- 世界連覇のみならず、92年の引退時まで、日本競輪の優勝回数は168回。
オフシーズンもなかった競輪で、常に上を目指し続けるモチベーションを、一体どうやって保っていたのでしょうか。
「自分がやりたいこと、目指したいことを、まず決める。その目標を達成するためには、目先の小さな目標を立ててこなしていくといいんです。
1日100Km、自転車仲間と山に登り、それを3日間続けたら飲みに行くと決めて練習することもありました。
近い目標があると、気持ちにハリが出ます。皆さんも、何月何日に遊ぶ。それまでは仕事を頑張る。その程度でいいから、始めてみてください。悩む暇もなくなるし、体も元気になると思いますよ!」
まずは近い未来の目標をつくる。その積み重ねが、大きな壁を乗り越える力となる。中野さんの確信に満ちた笑顔を見ると、毎日の積み重ねがいかに大切なのかが伝わります。
「遠い目標も、小さな一歩から」。その思いで毎日を過ごせば、未来はいつの間にか輝いているのかもしれません。
- ※フラワーライン・・・千葉県にある道路の名称。競輪ではこの街道で練習していた選手たちのことをさす。