あとぴナビ/スペシャルインタビュー |
取材・文/柿原恒介 、撮影/橋詰芳房 |
PROFILE 1967年生まれ。福岡県出身。 喜劇役者、ダンサー、振付師。 本名・小浦一優。 89年お笑いコンビ『テンション』結成。96年『劇団“I-CHI-MI”旗揚げ』。98年アカペラパフォーマンスグループ『GO-JAP』結成。2004年劇団『東京アンテナコンテナ』旗揚げ。 本年、『R1ぐらんぷり2008』にて2位を獲得。一躍、有名芸人となる。『日本一キレのいいデブ』をモットーに、俊敏なダンスを披露。 特技はタップダンス。趣味は似顔絵描きと和雑貨作り。 |
- ピン芸人のお笑いコンテスト『R1ぐらんぷり2008』決勝進出で一気に大ブレイク。
スーツ姿で突然踊り出し、マイケルジャクソンなどの替え歌で一躍人気者となった芋洗坂係長。しかし、愛すべき『メタボ芸人』が生まれるまでには、様々な人生の紆余曲折がありました。
芋洗坂係長こと、小浦一優さんのこれまでの道のりを伺います。
- 喜劇役者:芋洗坂係長(小浦一優)
- つらいときこそ笑いが薬。人生は楽しく生きた者勝ちです!
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この日の取材は、昼も夜も蒸し暑い日が続いていた、真夏の夕方でした。
「よろしくお願いいたします」と登場した芋洗坂係長の格好は、スーツに黒縁眼鏡、そして極端に短い、ネクタイ。テレビでお馴染みの、あの衣装姿です。
まさか、いつもその格好で移動を...?「いえいえ。さっきまで撮影があったので。ふだんからこの格好ではありません(笑)」。そもそも『芋洗坂係長』とは、仮の名前。本名は小浦一優さんです。喜劇役者、ダンサー、振付師である小浦一優さんが生み出した1つのキャラクターが「芋洗坂係長」。
小浦さん自身の芸能界のキャリアは、実はダンサーからスタートしました。「中森明菜さんのバックダンサーとして、歌番組『ベストテン』にも出たことがあります。スタジオでそうそうたる芸能人を目の前にして、僕もいつかはバックダンサーではなく、自分の名前で表舞台に立ちたいと思いました。堺正章さんみたいなエンターテイナーになるのが夢だったんです」。
しかし2枚目路線の細面の青年ダンサーの未来は、ある人物との運命的な出会いにより、少しずつ変化していきます。
- ■ 相方が俳優としてブレイク。かし自分は無名のまま...。
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20歳の頃、ダンサーとして働いていた六本木のショーパブで、小浦さんは俳優志望の青年と出会います。
現在、三谷幸喜作品など数々の映画・ドラマで活躍中の俳優・田口浩正さんです。小浦さんと田口さんはすぐに意気投合。田口さんの影響で、小浦さんも次第に芝居にのめりこむようになり、2枚目路線のダンサーから、笑いも取り入れた芝居の世界へと活動をシフトチェンジ。そしてついには、お笑いコンビ『テンション』を結成することに...。
「当時、ホリプロにお笑い部門が新設されて、オーディションがあるという情報を聞いたんです。お笑い芸人になるつもりはなかったけど、ステップアップの方法としてはアリなんじゃないかとコンビを結成しました。
『このネタ、面白過ぎるね。俳優志望なのにお笑い芸人になっちゃうね』なんて話しをしながらオーディションを受けたら、『つまんない。来週、別のネタを持ってきて』と言われて(笑)。悔しいので、本気になって他のネタを持っていったら、合格したんです」。『テンション』は、テレビ番組のレギュラーを獲得。人気も急上昇しましたが、2人には焦りが生まれていました。
「仕事はいっぱい来たけど、仕事に実力がついていかないことを実感していたので、このままじゃ潰れてしまうと思ったんです。やはり自分たちが本来やりたかった道へ進もうと話し合って、田口は映画やドラマの俳優の道へ。僕は舞台道へと進み、コンビは休止状態になりました」。
その後、小浦さんはイジリー岡田さんらと劇団『I-CHI-MI』を結成。俳優だけでなく、演出、脚本なども担当し、演劇の世界で一目置かれる存在となっていきます。
しかし、俳優として華やかに活躍していく田口さんと比べると...。 「結局、相方の方が売れていた。芝居の実力では負けていないのに、という思いはありましたね。ただ、相方はものすごく僕の力を認めてくれていまして。『おまえが売れてないのはおかしい』といつも励ましてくれた。気持ちの支えになりましたね」。
- ■ 周囲の支えに涙し、決戦に挑んだ『R1ぐらんぷり』
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自分が進んでいる道は、間違っていない。周囲の人間や観客も自分の実力を認めてくれている。その思いで、小浦さんは40歳を過ぎてもなお、舞台活動を続けます。「たとえ小劇場のお客さんでも、みんなが大爆笑し、泣いてくれている姿を見ると、『大丈夫だ。僕は間違っていない』と確信できたんです」。
04年、小浦さんは自分の舞台でエンターテイメントを追求するため、劇団『アンテナコンテナ』を旗揚げ。07年に池袋演劇祭の大賞も受賞し、次第に波に乗り始めますそんな折、ふとしたきっかけで『R1ぐらんぷり2008』に出場することに。
「中学2年生の僕の息子は、お笑い番組が大好きでして。息子が好きな世界で活躍するお父さんの姿を見せるのもいいなと思って応募したんです。でもね、息子に『応募したよ』と言ったら、彼は早速周囲の友達に『父親がR1でテレビに出演する』とふれ回ってしまった。バカ、予選を勝ち抜かないとテレビには出れないんだよと(笑)もう引くに引けない状況になって挑んだら、準決勝まで勝ち進んだ。
そこまで行くと、有名な芸人さんたちばかりで、無名なのは自分だけ。これまでかな、と諦めていたら『決勝進出が決まりました』と電話が来たんです」。
『R1』はピン芸人によるコンテスト。しかし、小浦さんの戦いは、1人の戦いではありませんでした。
決戦の地・大阪へ向かう新幹線の中で小浦さんは『父ちゃん、いまから日本一になるからな』というメールを息子さんに送ります。イジリー岡田さんからは『1人で戦うのはつらいだろうが、こっちでみんなも一緒に戦っているぞ』と応援メールが。田口さんからは『おまえのオモシロさを、全国に知らしめてこい!』というメールが届きます。「僕はひとりでボロボロ泣きながら移動していました。絶対に優勝して息子の名前を叫ぼうと決意して挑みましたけど、結果は準優勝...。
でも、これでいいんです。『2位の係長』の方がしっくりくるでしょ?(笑)。来年の出場をどうするかが思案のしどころですね。」涙の感動話の後も、必ず笑い話を散りばめる。夢を諦めず、地道に活動を続けてきた小浦さんの口調には、ジワリと優しさが伝わってきます。「諦めないことは確かに大切だと思います。でも、頑なになりすぎて、自分に負担をかけ過ぎては、周囲の人にもストレスや悲しみが伝わっちゃう。
ひとつの方法がダメだったら、『じゃあ、違う方法で』と気持ちを切り替えることも大切ではないでしょうか。僕はそうやって20年、芸を磨いてきました。みなさんも、つらいときこそ、生活の中にできるだけゆとりと笑いを散りばめてみてください。笑いは薬です。人生は楽しく生きたもん勝ちですからね」。
サラリーマンの汗と涙を笑いに変える、芋洗坂係長さんから、これからも目が離せません。