あとぴナビ/スペシャルインタビュー |
取材・文/柿原恒介 、撮影/橋詰芳房 |
PROFILE 2005年4月に沖縄でバンド結成。沖縄音階にロック、レゲエをミックスしたサウンドに乗せて、あたたかいメッセージを発信。 「かりゆし」とは沖縄の方言でめでたい、縁起がいいという意味をもつ。「58」は沖縄県のメインストリート、国道58号線に由来 する。2006年2月アルバム『恋人よ』でデビュー。同年7月シングル『アンマー』で、日本有線大賞新人賞受賞。07年10月の フル・アルバム『そろそろ、かりゆし』は、2週連続でオリコンインディーズアルバムチャート1位を獲得。メンバーは現在も沖縄 県糸満市在住。 公式サイトhttp://www.ldandk.com/kariyushi58/ |
- 06年、バンド結成2年足らずで、第39回日本有線大賞新人賞を受賞した、かりゆし58。受賞曲『アンマー』は、音楽番組のみならず、 数々の報道番組でも取り上げられ、話題となりました。年齢・性別を問わず、胸に伝わってくる「感動の歌」の数々が生まれたきっかけを 伺いました。
- 飾り気のない言葉で、心温まるメッセージを歌に託し、注目を集めている4人グループのかりゆし58。「言葉を伝えたいために、音を奏でる」という彼らの真摯な歌詞に、心を揺さぶられた方もいるのではないでしょうか。地元・沖縄で出会った同い年の4人の若者は、一体どんな思いを伝えようとしているのか。彼らの思いを知るには、まずはリーダー・前川さんの人生を辿る必要があります。前川さんは小学生時代、勉強もスポーツもトップでしたが、どこか周囲と打ち解けないヤンチャな子どもは、成長とともに手のつけられない不良少年に。ケンカや非行を繰り返した中学時代の後、高校に入学します
。
「かりゆし58では僕だけ違う高校だったんです。他のメンバーが通っていた高校は、生徒が一致団結して盛り上げていくような明るい学校で。その雰囲気に惹かれて、自分の高校よりそっちの高校に遊びにいくようになったんです」(前川・以下略)。
その高校でバンドを組んでいたのが、ギターの新屋さんとドラムの中村さんでした。前川さんはメンバーでもなく、他校の生徒なのに常に練習に参加し、バンド加入をアピール。初めは全く相手にされませんでしたが、ついには文化祭ライヴのアンコールで、演奏に加わります。
前川さん自身も、高校から自身のバンドを結成。地元では名の知れたバンドとなりますが、それで生活が成り立つわけもなく、結局バンドは解散。職業安定所で仕事を探すことになります。
「そこで紹介してもらったのが愛知県のトラック運送会社でした。職場はワケアリの過去を持つ年配の運転手がほとんど。
仲間が飲み屋で話すのは、昔のワル自慢ばかり。そして、次々と体を壊したり、自殺や行方不明になったりと、3年間で15人もの人がいなくなった。そんな暗い世界だったんです。そのとき初めて、今までどんなに母にやさしくしてもらったか、温かい世界にいたのか気づきました」
- ■死にものぐるいで、バンド活動に夢を託した
- "このままだと、自分はダメになる"。前川さんは、人生に危機感を感じます。「それまで僕は全てにおいて中途半端だったけど、ギターだけは続けていた。それなら音楽で身を立てようと思い、運転手を続けながら貯金をし、音楽専門学校への入学準備を始めたり、作曲もして、自宅で録音していきました。その後、地元に帰省しているとき、偶然、行裕と洋貴に曲を聴かせてみたら、〝いいじゃん.という反応になって。自分達でバンドを始めようという話になったんです」。当時、新屋さんは東京の音楽専門学校を卒業するも、プロにはなれず帰省中。中村さんも、働いてはいましたが、将来に悩んでいる時期でした。3人は、「1年以内にプロになれなければ解散」という期限を設け、週5日、深夜から朝までのスパルタ的なバンド練習を開始。併行してデモCDを全国各所に送ります。そして、1年という期限が迫るギリギリの頃、現在所属しているレーベルから契約の声がかかったのです。
- ■格好つけずに周囲の人々への感謝を伝えたい
- しかし、現実は甘くありませんでした。デビューミニアルバムの売れ行きは大不振。レーベルには、「次のシングルが売れなければ次のリリースは厳しい状況」と言い渡されます。
「暗い世界から抜け出し、死ぬほど努力をして、ようやくデビューしたのに、また転落するのかと、このときほど人生に絶望を感じたことはありませんでした」。
前川さんは自身の人生を振り返りました。脳裏に浮かんだのは、デビューアルバムを自腹で100枚も買い、知人に配ってくれた母の姿でした。ワガママな生き方をしてきた自分を、ずっと見守り続けてくれた母。県外ツアーでお金がないときに、封筒にお金を入れて応援してくれた中村さんのお母さんの姿も浮かびました。
「どうせ最後なら、自分達のための曲ではなく、メンバー全員の母親のための曲をつくろう。そう思ったんです」。
母への感謝の思いを綴った『アンマー(沖縄言葉で母の意)』は、その切なくも美しい歌詞が話題を呼び、ヒットを記録。バンドは一気にメジャーな存在となります。その後、サポートメンバーだった同郷の宮平さんもギタリストとして正式加入。諦めず夢に向かい続ける人びとへの応援歌『ウクイウタ』もヒットを記録し、勢いを増していきます。
「『アンマー』をリリースした後…、少しずつ音楽でご飯が食べられるようになったとき、〝ああ、僕らは、周囲の人々に生かされているんだな.って気付いたんです。そして、人に生かされている存在なら、聴いている人がハッピーになるような歌を作っていくべきだと思うようになりました」。
今後の夢は、家族・友人・ファンなど周りの人への愛情や幸せな瞬間を、地道に歌い続けていくことです。
「人にやさしくしてもらったから、自分もその人にやさしくしたい。そんな思いでいると、何か大きな力で、全てが動いていく気がするんです。まずは人にやさしくしてもらったことに気づくことが大事。感謝の気持ちで愛を反射していけば、いつか必ず未来につながる。僕らはたとえダサくても、周囲の人へ〝幸せになろうよ.、という気持ちを伝え続けていける人間でありたいと思っています」。