あとぴナビ/スペシャルインタビュー |
取材・文/柿原恒介、撮影/橋詰芳房 |
PROFILE 坂本博之(さかもとひろゆき) 1970年、福岡県生まれ。 小学2年生の時に児童養護施設「和白青松園」で過ごす。施設でボクシング中継を観戦し、ボクシングへの憧れを抱く。 8歳で母親と上京。小松原高等学校卒業後、東京都角海老ボクシングジムに入門。 1991年にプロデビュー、93年に全日本新人王&日本ライト級王座を獲得。96年東洋太平洋同級王者。過去4度世界同級タイトルマッチに挑戦。2007年の現役引退後、同ジムトレーナー業の他、講演など、活動の幅を広げている。 戦績47戦39勝(29KO)7敗1分。 「こころの青空基金」(全国の児童擁護施設への支援活動) 公式サイト:http://www.kadoebi.com/aozora/ |
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「倒すか、倒されるか」。一撃必倒の豪打を誇り、常に前に出るボクシング・スタイルで“平成のKOキング”の異名を誇ったハードパンチャー・坂本博之さん。
2000年の畑山隆則選手とのWBA世界ライト級タイトルマッチの死闘に感動を覚えた読者の方も多いのではないでしょうか。
苦難にさらされた幼少時代、そして怪我。数々の壁を乗り越えた坂本さんが信じた力とは?
今月は坂本さんに、苦境に立ち向かう心構えの術を伺いました。
- 元プロボクサー:坂本博之さん
- 決してあきらめず、熱を持って打ち込み続ければ、必ず運命は切り拓かれる!
- ■ 飢え、虐待……。1日1食で過ごした幼少期
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多くのボクシングファンから愛され、「記憶に残る名選手」として語り継がれている坂本博之さん。
しかし、坂本さんが人々に感動を与えたのは、闘志溢れるボクシング・スタイルだけではありません。その壮絶な生い立ちとそれを乗り越えたパワーもまた、多くの人々に感銘を与えました。
坂本さんは、生まれてすぐに両親が離婚し、乳児院で成長。その後、わずかな期間、母親と共に暮らしますが、6歳の頃には弟と共に遠い親戚に預けられることになります。
「その家ではろくに食べ物も与えられませんでした。暴力も酷く、公園でとがった石を並べた上に2時間も正座させられたこともありました。栄養源は、学校の給食のみ。川で捕まえたザリガニを火で炙り、飢えをしのぐこともありましたね。空腹状態が続いたおかげで、僕は拒食症に、弟は栄養失調になりました。さすがに学校でも『おかしい』ということになり、僕たちは児童養護施設に保護されることになったんです」。
児童養護施設で、幼い兄弟が感動したこと。それは朝昼晩に食事がちゃんと出るということでした。坂本さんは、自分たちを救ってくれた養護施設へのお返しとして、2000年に全国の養護施設にいる子ども達を支援する基金「こころの青空基金」を設立。坂本さんの試合には、施設の子ども達が集結し、声を枯らして応援しました。
「打たれても打たれても、前へ出るのが僕のボクシング。僕は子ども達に、ボクシングを通して『運命は切り開く事ができる』と伝えたかった。
そして、僕自身も子ども達の応援に勇気づけられていました」。
- ■ 1度だけ出会った父は、正義感と力に溢れる男だった
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坂本さんは、ボクシングを通じて出会ったファンの応援に支えられ、通算4度も世界タイトルマッチに挑戦。この不撓不屈の精神を支えたのは、やはり子ども達の存在でした。
「どんなに過酷な状況にいても、愛情を背に受けて支えられていれば、人は変われるし、前に進めるんです」。
周囲からの愛情が前に進む勇気を与えてくれた……。しかし現在、自身のご両親に対しては、どのような感情を持っているのでしょうか。
「父親とは、中学1年生のときに、1度だけ会ったことがあります。当時、僕は柔道の顧問教師にも腕相撲で勝っていたほど力自慢でしたが、父親との腕相撲では、あっという間に負けました。地元の人に話を聞くと、父は正義感溢れる強い男として有名だったそうです。
最後に父の声を聞いたのは、98年。世界タイトル戦の前哨戦の1週間前に突然、電話が来たのです。どうしても会いたいから九州に来てくれと。 僕は試合を終えたら行くと伝えましたが、父はその3日後に亡くなりました。父との思い出はそれだけ。
でも、男気のある人だったという話を聞くと、嬉しい気持ちになります。母は、養護施設に迎えにきてくれた時点で全てを許しています。両親に恨みの気持ちなんてありません」。
- ■ 坂本さんの心を奮い立たせた少年との出会い
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『僕は運命を信じない』
(西日本新聞社刊)1,575円(税込)
田中 耕・著
「どんな環境や境遇に生まれようとも、人は変われる。どんな困難が起きても、必ず立ち上がってみせる。」絶望の中でも夢を追い続けた坂本さんの生い立ちから現在までの壮絶な生き様の記録。
05年、日常生活もままならないほど悩まされていた重度の椎間板ヘルニアを治療するべく、手術を決意します。全ては現役続行のための決断。しかし、腰の手術をしてカムバックしたボクサーはこれまで前例がありませんでした。
「わずかな望みを託した手術は無事、成功しました。でも、その後は長く辛いリハビリ。入院中は正直、弱気になったこともありました……。そこで出会ったのが、当時14歳の少年タッちゃんです。彼は剣道の有望選手だったのですが、事故で寝たきりになっていた。でも、彼は人の何十倍も努力して、リハビリを続けていました。貧血になっても、医者に止められてもリハビリを止めない姿を見て、僕は人間の根本的な強さを学びました」。
タッちゃんは、血のにじむような努力を続け、車いすで移動できるまでに回復。全日制の普通高校にも合格し、現在は大学受験に挑戦中だそうです。
「僕はタッちゃんから熱意をもらい、僕もタッちゃんに熱意を放ちました。他の患者さんも含め、熱意の輪が広がったことで、自分の中に諦めない心が生まれ、不可能を可能にしたんです」。
坂本さんは懸命なリハビリを成し遂げ、遂にリングへ復帰。06年に奇跡のKO勝利を飾ります。そしてその2試合後、引退を決意しました。
「引退試合のリングを降りるとき、みんなの声援がわーっと聞こえました。そのとき、僕は世界チャンピオンの称号は得られなかったが、素晴らしい財産を得たんだと思いましたね。熱を持って打ち込めば、熱は必ず返って来ると。ボクシングは僕の生き様です。そこから多くの人が何かを感じてくれたと最後に思うことができました」。
現在、坂本さんの熱は、全国の児童養護施設への支援に注がれています。施設の環境の改善、そして子ども達への心の触れ合いを重ねるべく、坂本さんは全国を飛び回っています。
「現在、全国の児童養護施設は定員オーバーの状態。日本の子どもの人口は減っているのに、施設の数は約560か所にも増加し、それでも足りない。そして、虐待を受けて入所する子どもが増え続けています。この状況は日本の未来の危機です。僕はこの現状を多くの人々に伝えなければいけない。そして多くの子ども達の心に、熱を伝えていきたいと思っています。病気も悪い環境も、どんな状況にあっても熱を持っていれば、人は変われる。運命は変えることができるんだ!と」。
坂本さんが放つ熱の輪は、少しずつ着実に広がり続けていきます。